2004年06月24日

音楽鎖国(slashdot)


既に議論中で散々指摘されている内容も含むが
 
暴言を覚悟で言ってしまえば人間が一個の生物として活動するに当たって音楽とは元来必要の無いものである。
血肉にならない音程や詩を理解することができようができまいが生物は生きることができる。
誰が何と言おうと生物学的には「不要」なのだ。
それが今日に於いてこれほどまでに人々に求められているのは何故なのか考えたことはあるだろうか。
歌詞の内容に諭されるときがある。勇気付けられるときがある。
音色に喜び、悲しむことがある。
それらは全て心をもつが故。語られる情景は時として雄弁に人々の感性に訴えかけ、百万言よりも強く感情を動かすことがある。
少しだが植物が音楽を解するという話は有名である。
言葉でも効果があるという話すらある。
モーツァルトを聞かせて野菜がよく育つなら天間林の葫はジェット機の音を毎日聞くから只者でない出来になるのだろうと語ったのは伊奈かっぺい氏だったか。
脱線したが、真に心地の良い音色は種の壁すら越えて影響するものなのだ。
生物学的には不要、しかしそれは心の滋養となり、そして生活をすばらしいものへと変えて行く。それが音楽ではなかったのか。
しかし現状はこのザマだ。
 
件の連中にユーザフレンドリという考え方が欠落していることは既にSMFの騒動とCCCD騒動で証明されている。
流通の重要性を否定する気は無いが、提供者からすら疑問の声があがる制度を強行的に通したことで、
件の連中はユーザは金を、アーティストは音楽を搾り取るための家畜であると宣言したに等しい。
そういう姿勢ならそれでもいいかも知れない。しかしそういった姿勢の連中が自由経済市場に晒されることを忌避するのは何故なのか。
 
文化としても商品としても、連中に音楽を扱う資格は、無い。
しかしそういう連中が音楽を牛耳る時まで、もう時間は無い。
 
音楽を愛する全ての人々よ。
戦う準備はいいか?

Post: @ 2004.06.24 13:06
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